Fly Me to the Moon (In Other Words) ~つまり、抱きしめて。【静岡・天竜川】

 2016-07-09
「私、月に住んでいたの」

彼女が最初にそう言ったとき、僕はなんだか悪い冗談を聞いてしまったんじゃないか、と思ったのでした。
彼女は会社こそ違えども、ここ最近の僕の仕事のパートナーで、いつもきちっとしたスーツを着て、どんな難題もテキパキとこなす凛とした女性で、そんな乙女のようなロマンチックなことを言うようなタイプだとは思ってもいなかったからです。

そんなわけでしばらく返す言葉が見つからず、突然アフリカのジンバブエに異動を命じられた商社マンのように口を半開きにして、魂の抜けたような顔をしている僕に向かって、彼女は今度は笑いを堪えながら、もう一度言いました。

私、月に住んでいたのよ。
静岡の山の中に、『月』という名前の集落があるの。私、そこの出身なのよ。


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テーブルの上には、よく冷えた白ワインと、涼しげな夏色が散りばめられたオードブルがありました。
僕らは来週に迫ったイベントの最終の打ち合わせを兼ねて、彼女の行きつけのレストランで遅い食事をはじめたばかりでした。

「びっくりしたよ、本番前で忙しすぎてアタマが月まで飛んでっちゃったのかと思ったよ」

彼女は楽しそうに、でも必要以上にくだけ過ぎることない笑顔でよく冷えた緑の前菜を切り分けながら、ないない、というふうに首を2.3度振りました。

もう今は古い家だけが残っていて誰も住んでいないんだけど、夏になると無性に帰りたくなることがあるのよね。



『月』と聞いても、僕にはあの、クレーターのでこぼこだらけの荒涼とした灰色の土地、というイメージ以外は全く想像できず、『夏』という季節とうまく結びつけることができませんでした。

天竜川っていう大きな川がすぐ横を流れていてね、ううん、天竜川に「月」の集落がおまけみたいにちょこっと張り付いてる感じかな、天竜川の色は夏が一番似合うのよ。


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彼女によると『月』という場所は静岡の浜松からずっと山奥に入ったあたり、浜松市天竜区(浜松と合併する前は天竜市だったんだけどね)というところにあるのだそうです。
急流として知られる天竜川が下流のダムでせき止められて、ここでは湖のように穏やかな水をなみなみとたたえていました。
季節や天気、時間や角度、そして見る人の心によって、それはいろいろな表情を見せてくれるのだといいます。


「月」には天竜川のボート場があって、みんな小さいころからボートに乗るのよ。
だから私も子供の頃は夏は真っ黒に日焼けするまでボート漕いでいたのよ。今はそんなふうには見えないと思うけど。

よく冷房の効いた白い壁をバックにワイングラスを傾ける彼女が、真夏の太陽の下で必死にオールを引く姿は、確かに想像しようと思ってもなかなか難しい、と思いました。


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ょうど夏の盛り、お盆の前の数日間が、僕たちが携わっていたイベントの本番でした。

イベントの直前、彼女はおそらく2日くらいほとんど寝ずに準備をしていたはずでした。
それでも本番になると、次々と訪れる外国人を相手に、彼女は相変わらずスマートでひとつの隙もない所作を見せていましたが、もしかすると本当はかなり無理をしていたのかもしれません。
もともと肌が白いせいでしょうか、普段はあまりメイクをしているようには見えない彼女でしたが、イベントの期間中は今まであまり見たことのないような濃い目のルージュを引き、まるでエメラルドのようなグリーンのアイシャドウ姿で現れたのでした。
そんな彼女を見ながら、なんとなく夏の『月』は、今、彼女の目元を覆っている色に似ているのかもしれない、と思ったのでした。


2日間のイベントのあと、関係者のちょっとした打ち上げが終わると、僕たちもそのままお盆休みに入り、毎日のように顔を合わせていた彼女と会うこともなくなりました。
ここ数か月の忙しさにかまけて、何の予定も立てていなかった僕は、たった5日間の休みでさえ時間を持て余すありさまでした。



そうだ、月に行ってみよう。

突然、そんなことを思いついたのは、お盆休みも3日目の午後、そろそろUターンラッシュが始まりかける頃でした。
「月」という名前や、一年で一番美しいという天竜川の夏の色が気になっていたことは間違いありませんが、何よりも彼女がかつて住んでいた場所を見てみたくなったのです。

15時すぎの新幹線に乗って浜松まで行き、そこから先は小さな私鉄に乗り換えて終点まで。
月にはどうやらそこからバスで行けるようでした。

1日5往復しかないバスの最終便、夕方6時半過ぎのバスに乗ると、やがて車窓の左に湖のように豊かな水をたたえた天竜川が寄り添ってきます。けれども残暑といわれる季節になっても容赦なく照り付けていた太陽はすでに山の端に隠れ、天竜川は夏色ではなくモノクロームに染まりかけていました。
出発して20分、バスが国道わきの路肩に突然停まると、そこが「月」のバス停でした。


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そこには彼女が言っていたような水辺の静かな集落は、ありません。
右手はすぐに山林、左手はすぐに天竜川の崖。「月」のバス停の周囲には民家も商店もありません。
ただ、モノクロームの天竜川を挟んたはるか向こうの対岸に、漕艇場の桟橋らしき一角と、「天竜川のほとりにおまけのようにちょこっと張り付いている」集落が見えたのでした。

上流を見ても、下流を見ても、この近くに両岸を結ぶ橋があるようには見えませんでした。
「月」の集落のはるか西、伊那谷へと続く幾重もの山々の向こうに太陽が沈み終えると、あたりを闇が加速度的に覆いはじめました。そんな中、どこにあるかもわからない橋を渡って、今からあの対岸までたどり着くのは不可能のように思えました。

まあ、仕方ない。
彼女が育った「月」がどんな場所なのか見られなかったのは残念だけど、このまま上りの最終バスで帰ろう。


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「『月』のバス停に行っちゃったの?」

携帯電話の向こうの彼女は、珍しく驚いたような声をあげました。

そうか、私、話したことなかったっけ。月のバス停は月の集落からはずっと離れているのよ。なんであんなに何もない場所にバス停作ったのか、よくわからないんだけど・・・

本当は東京に帰るまで、彼女には黙っておくつもりでした。
イベントが終わって、もう今までのように会って話をする必要がなくなってしまった彼女を食事に誘い出すためのネタとして、「月」に行った話を使おうと考えていたのでした。
けれども予想外の展開で「月」に行くことができなくなったので、どうせなら笑い話にしてしまおう、と思ってバスを待つ間に彼女に電話をかけてしまったのでした。
しかし次に彼女から返ってきた言葉は、さらに予想外のものでした。


「仕方ないなあ。今クルマがないから、すぐには行けないけど、もうちょっと待っててくれれば迎えに行くから」
「えっ?」
「月、あっ、ホンモノの月のことよ、月が出て、もう少し明るくなれば、ボートが出せるから」


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ードレールを乗り越えて、草や木につかまりながら天竜川の崖を川岸近くまで降りると、彼女の乗った二人用のボートが1メートルほど下にありました。それは競技用のような細長くて尖ったものではありませんでしたが、桟橋もない不安定な水の上に浮かぶ小舟に、何事もなく飛び乗るのは至難の業のように思えました。

僕の体重を乗せた右足が着地し、船が大きく傾くと同時に、彼女は僕の両腕を抱えこみ、船の底に引きずり込むように伏せたのでした。
まるで嵐の大海原のように右へ左へと激しく揺れていた船の振幅がだんだん小さくなるのにあわせて、僕の両腕を抱えた彼女の力がゆっくりと抜けていき、限りなくゼロに近づいたところで迷ったように止まったのがわかりました。
このあと再び力を入れようか、それとも手放してしまおうか、と。



「ねえ、私が『月』に帰ってることを知っててここに来てくれたの?」

いや、そんなことまったく知らなかった。
僕がそう答えると、彼女はなあんだ、と言って僕から両手を放し、狭い船の底から起き上がりました。



いつの間にか東の山の端から大きなホンモノの月がのぼっていて、天竜川に月色の道を描き出していました。
彼女のボートはその上をゆっくりと「月」へと進みます。

「月の夜の天竜川もなかなかいいでしょ。でも本当の夏の「月」の色、あの時間からじゃ見られなかったんじゃない?」
「うん、そうだね。本当の「月」の色を僕はまだ見ていない」

でも、明日の朝になるまで見られないわよ。
彼女はスイスイと滑らかにオールを操りながら、そう言いました。
それが真夏の太陽の下ではなく、川面から反射するちょっと妖しげな月の明かりの下だったからでしょうか、あれほど想像できなかった彼女のボート姿は、意外にもしっくりと僕の頭の中に入りこんできたのでした。



「ねえ、私が『月』に帰ってることを知っててここに来てくれたの?」

彼女がもう一度そう聞いた時、本当はそうなることを期待していたのかもしれない、ということに気づいた僕がゆっくりとうなづくと、自分の生まれた「月」の家に向かって漕ぐ彼女のオールの力が少しだけ強くなったような気がしました。



Fly me to the moon And let me play among the stars
Let me see what Spring is like On Jupiter and Mars
In other words, hold my hand !
In other words, darling kiss me !



<おわり>




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