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僕と彼女の世界遺産 ~高山社跡 【群馬県/藤岡市】

 2014-06-21
群馬県にある、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録されることになりました。

その、「絹産業遺産群」の中のひとつに、高山社跡、という小さな史跡があります。

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ここは養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行っていた高山長五郎という人の生家です。

富岡製糸場は、それなりに大きな建物で、多少は見どころもあるようですが、この高山社跡は昔の民家のような建物が1棟あるだけです。
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たぶん、来た人は100%「えっ、これが世界遺産?」と思うような地味な史跡です。

この高山社跡は、僕が昔住んでいた町の、山の奥のほうにあります。

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僕の中学校時代、「高山3人娘」と呼ばれる同級生の女の子がいました。
彼女たちだけが、唯一、この高山社跡がある「高山」地区から遠路はるばるバスで30分もかけて通学していたからです。同じ校区にあったとはいえ、そこだけがまるで別世界かと思えるほど、僕たちには遠く、未知な場所でした。



高山3人娘は3人とも全くタイプの違う女の子でした。

1人は、わりと優等生タイプ。すらっとした外見に、物静かで、勉強もそこそこできる女の子。

もう一人は、田舎の典型的なやんちゃな女の子。格好も、行動も、限界を超えないレベルでツッパっているけど、どことなくあか抜けない感じで、なおかつ基本的にはやさしいので、本当の極道にはなりきれない女の子。

そして3人目は、実にのどかで、純朴な女の子。町の生徒たちとは時間の流れもモノの価値観も全く違っているようでした。おかっぱ頭で器量もよいわけではなし、勉強もスポーツもどちらかといえば苦手なようでしたが、どこか人をホッコリさせるものがあったのでしょう、今で言ういじられキャラのようにみんなから、からかわれながらも、楽しそうに過ごしていました。

3人とも、普通に教室で過ごしていたら、それぞれがまったく異なるグループに属して、あまり接点はなさそうですが、小さい頃から3人でずっと一緒に過ごしてきたせいか、毎日、行きも帰りも仲良く3人でバス通学していました。



僕は3年間で彼女たちとそれぞれ1回づつ同じクラスになりましたが、今でも一番記憶に残っているのは、3番目の女の子です。

彼女とは1年生のときに同じクラスでした。
入学早々、自己紹介を兼ねて、朝の学活で全員が3分間スピーチというのを行ったのですが、彼女が語った「山の生活」はその想像を超えた純朴なキャラクターと語り口でクラス中が大爆笑だったことを覚えています。



3年生になったある夏の日、1学期の期末試験の最終日だったような気がします。
午前中で試験が終わり、いったんは家へと向かった僕は、途中で忘れ物をしたことに気づき、教室に戻ったのですが、その時に隣のクラスの席にひとり坐っている彼女の姿を発見したのです。

彼女は訳あって、午後一番のバスに乗り遅れてしまったようでした。
高山に帰るバスは1日たった3本しかありませんでした。朝1本、昼過ぎに1本、そして宵に1本。
次のバスまで、あと5時間もある、というのです。

それはちょっとかわいそうだな、と思いつつも、彼女を残して再び家に帰ろうと歩き始めたとき、なぜだかふと、高山という未知の場所まで行ってみるのも悪くないな、という気がわき起こりました。

歩いて帰ったことがないからわからないけど、家まで20キロくらいあるよ、と彼女は言いました。
でもそれは、高山まで歩いて行ってみようか、という僕の突拍子もない提案を、否定する口ぶりではありませんでした。

途中で疲れてギブアップしても、結局乗るバスは同じだから、まあいいか。
大らかな彼女にとって、そんな気軽な感じだったのだと思います。

中学校を出てからしばらくは比較的平坦だった道は、1時間ほど歩いて車の往来の多い県道を外れ、高山へと向かう一本道に入る頃からだんだんと勾配を感じるようになってきました。
7月の午後2時の日差しは今ほど強烈ではなかったにせよ、テストのためずっしりと教科書を詰め込んだカバンを抱えて、ほぼ真上からこれでもか、とばかりに照り付けてくる太陽の下、日蔭もない山里の一本道を歩くのは、さすがに楽ではありませんでした。

それでも彼女は文句ひとつ言うことなく、まる昔話の絵本のような山の暮らしをずっと話し続けていました。

野ウサギ、タヌキ、カブトムシ。
クワの実、野イチゴ、山ぶどう。

ずっと向こうのアスファルトに、まるで水が撒かれたように、透明な液体のようなものが揺れているのが見えました。そうか、これが世に言う蜃気楼なのか、と僕はその時はじめて気づきました。
彼女の話は子守唄のようで、まるで夢の中でその言葉を聞いているような錯覚さえありました。年の近い友達が少なくても、ゲームセンターどころか、駄菓子屋さえなくても、なんだか人生は十分事足りるような気さえしてきたのでした。

彼女の通っていた小さな小学校(小学校ももちろんバスでの通学でした)を過ぎると、人家は極端に少なくなり、渓流に沿った一本道は、両側から山が迫ってくねくねと曲がりはじめました。
それと同時に、あまり縁起の良くなさそうな雲が、いつの間にがじわりじわりと空を覆い始め、遠くから上州の夏の風物詩、雷鳴が聞こえ始めました。

学校を出て2時間。ちょうど10キロくらい歩いた頃でしょうか、ポツリポツリ、と落ちてきた大粒の雨は、最初の10秒ほど、僕らの様子をうかがうように遠慮がちに降り始めましたが、次の10秒でアスファルトの全面を濡らしてしまうほど激しく豹変したのでした。

僕たちは慌てて近くにあった大きな門の屋根の下に逃げ込みました。
横殴りの雨を避けようと、屋根の下のわずかなスペースに背中を張り付けると、彼女の濡れた肩が僕の左の二の腕に触れました。

稲妻や、突風や、意地悪な水鉄砲から放たれてくるような攻撃的な雨が、容赦なく僕たちの逃げ道を狭め、それを避けるためには、もう僕と彼女が折り重なるしかない、というレベルまで追い込まれたところで彼女が言いました。

このお屋敷の中に入ろう。たぶん、誰もいないと思う。
ここは高山の昔の有名な人のお屋敷だけど、今は誰も住んでいないって聞いたことがあるから。



中に入ると、はじめは暗くてほとんど何も見えませんでしたが、だんだん目が慣れてくると天井の高い玄関の両脇に、荒れ果てた土間や畳間、板の間があるのがわかりました。
もわっとした生暖かい空気と、古いお屋敷の匂いが僕たちをじわじわと包み込みました。
ときどきどーん、という地響きのような音を立てて雷が落ちると、彼女の体がびくっと震えるのがわかりました。

こんな時、倉本聰の「北の国から」なら、暗闇の中、濡れたシャツを乾かすために二人とも下着姿になって、「ドキドキしていた・・・」みたいな純君の語りが入るのでしょうが、当時の僕にはそんな余裕はなく、ただ、早くこの嵐が去ってくれないか、とばかり考えていたような気がします。


結局、雨が上がっても、僕たちはそこから動くことはなく、高山に向かう最終バスを待って、それに彼女を乗せ、僕はその折り返し便で町まで帰ったのでした。

バスが来るまでの2時間ちょっとの間、何を話したかはもう忘れてしまいました。
道路からちょっと高くなっている門の前に座ると、夕立ちが去った後の風がすごく心地よくて、
彼女は僕に寄りかかって、スヤスヤと眠ってしまったようでした。

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あの日からもう30年以上が経ったなんて、改めて考えるとなんだか信じられませんが、去年の冬、高山社跡に行ってみると、あの頃に比べると、ずいぶんこぎれいになっていました。
世界遺産登録が決まったこれからは、さらに整備されるのだろうと思います。

でも、僕と彼女が、かつてほんの一瞬だけ心を通わせたこと以外、何の歴史も事件もないように思える、平凡で平和な場所に、人々が押し寄せてくるなんて、やっぱりなんだか変な感じです。


彼女が高山に住んでいるのかどうかは、今では僕もわかりませんが、高山社跡にたくさんの人々がやってくるのをもし彼女が見たとしたら、あの、ちょっとスローな独特の話し方で、
ふーん、なんでだろうね?
と首を傾けながら不思議そうに言うに違いないことは、今でも僕にはわかります。


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